吉永みち子wiki|生い立ち・若い頃、旦那・息子は?結婚・学歴は?

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吉永みち子という名前を聞いて、テレビのコメンテーターとして冷静に社会を斬る姿を思い浮かべる人は多いでしょう。

でも、彼女の人生を深掘りすると、そのタフなイメージの裏には、壮絶な生い立ちや、波乱に富んだ結婚生活があったことが見えてきます。

まさに「偉大なる普通の人」という言葉がぴったりで、僕もネットで情報を追うたびに、その人間的な魅力に引き込まれてしまいますね。

今日は、吉永みち子さんの核となる部分、家族やキャリアの原点について、じっくりと解説していきます。

きっと、この記事を読み終えた後、彼女を見る目が変わるはずです。

■目次

吉永みち子wiki|生い立ち・若い頃

吉永みち子さんは1950年3月12日、埼玉県川口市で生まれました。

彼女が生まれる頃、お父様はもう60歳だったそうです。

そのお父様が9歳で亡くなってからは、お母様と二人で下宿屋を切り盛りするという、苦労の多い生活を送りました。

貧しい時代を生き抜くために、中学生の頃にはアイドルタレントになることを考え、なんと渡辺プロダクションのオーディションに合格しています。

ただ、実際に芸能活動はしなかったようですが、この頃から彼女の「勝ち気」な性格が形成されていったようです。

下宿屋で、もしお客さんから何か文句を言われたら「女子供だと思ってなめんじゃないよ!」と食ってかかっていた、というエピソードには痺れますね。

僕が同じ立場だったら、きっと何も言い返せなかっただろうな。

その後、亡き父との約束もあって国立の東京外国語大学に進学するのですが、奨学金も借りていたため、早く一人前になろうと焦っていた時期でした。

ところが、大学時代は1968年の全共闘の最盛期と重なり、授業運営もままならないほど殺伐とした状況で、思い描いた学生生活とはかけ離れていました。

そんな異常事態の中で、たまたま友人に誘われて行った競馬場で、彼女は救いを見つけます。

競馬場では、勝っても負けても感情をむき出しにする人々の息遣いや、馬の迫力に心を奪われ、「やっと肩から力を抜いて楽に身を置ける場所が見つかった」と感じたそうです。

この情熱を追求し、お母様の反対を押し切って競馬専門紙「勝馬」に入社し、なんと日本初の女性競馬新聞記者(トラックマン)となったのです。

当時の競馬界は完全な男性社会で、女性の仕事といえばお茶汲みが当たり前の時代でしたから、この決断と行動力は凄まじいですよね。

吉永みち子|学歴は?

吉永みち子さんの学歴は、その後のキャリアの基盤を築いた、まさにエリート街道と言えるものです。

高校は、埼玉県立浦和第一女子高等学校を卒業されています。

この学校は偏差値72.5という超難関校で、彼女がいかに優秀な優等生だったかがわかります。

卒業は1968年3月です。

そして、1973年に東京外国語大学外国語学部インドネシア語学科を卒業されています。

難関の国立大学でしっかりと学び、その後に日本初の女性競馬記者というキャリアを切り開いたわけですから、知性と行動力の両方を兼ね備えた方だと思います。

吉永みち子|旦那・結婚は?

吉永みち子さんが騎手・吉永正人さんと結婚したのは1977年でした。

二人の出会いがまた劇的なんです。

彼女が夕刊紙「日刊ゲンダイ」の記者として、吉永正人さんにインタビューすることになったのがきっかけです。

多忙で疲れ果てていたみち子さんは、待ち合わせ場所の京王東府中駅で、なんと壁に寄りかかって立ったまま眠り込んでしまったんですよ。

それを「ずいぶん器用に眠れるんだね」と声をかけて起こしたのが、吉永正人さんでした。

この大失敗にもかかわらず、吉永正人さんは寡黙なイメージとは裏腹に、みち子さんのためにカメラマン役まで買って出るなど、優しさを見せてくれたそうです。

吉永正人さんは当時、「ベリースペシャル・ワンパターン」、略してV.S.O.P.と呼ばれるほどの個性派騎手でした。

寡黙でぶっきらぼうな外見の裏にある優しい心を知り、交流を深めたみち子さんは、2年後に周囲の後押しもあり、吉永さんと結婚に至ります。

ただ、この結婚は一筋縄ではいきませんでした。

吉永さんは再婚で、すでに3人の連れ子がいました。

そして、みち子さんのお母様は、連れ子を持つ男やもめとの結婚に猛反対したのです。

それでも吉永正人さんは粘り強く説得し、愛用の鞭を差し出して「自分の人生のすべてを賭してみち子を守り抜く」という覚悟を示すことで、ついに同意を得たというエピソードは、もう映画ですよね。

二人の結婚は、吉永正人さんがミスターシービーを駆り、中央競馬史上3頭目の三冠馬という偉業を成し遂げる直前の転機となりました。

しかし、二人は後に離婚しています。

離婚の理由は「友達関係に戻りたかったから」というもので、仲たがいしたわけではなく、離婚後も子供たちとの関係は続いていたそうです。

そして、吉永正人さんが2006年に胃がんで亡くなる直前には、みち子さんが身の回りの世話をしていたという話を聞くと、二人の絆の深さに胸を打たれます。

吉永みち子|息子は?

■家族構成と息子

吉永正人さんとの結婚後、一家は茨城県の日本中央競馬会美浦トレーニングセンター(トレセン)に引っ越し、そこで吉永さんとの間に実子の次男が誕生します。

この時、吉永家は、夫の連れ子3人、実子の次男、そして近くに移り住んだみち子さんの実母を含めた7人家族という大所帯になりました。

夫の連れ子のうち、吉永護さんは後に騎手・調教助手として活躍していますが、彼も前妻の子供であり、みち子さんの実子ではありません。

吉永さんは、この大家族の中で、特に気性の荒い実母と、自分の家族との間で神経をすり減らすことになりました。

お母様が「純正の孫だけと暮らしたい」「あんたたちさえいなかったら、私はもっと幸せだったのに」と平気で娘たちに言うような状況だったため、みち子さんは上の3人の連れ子の側について、家族のバランスを保つしかありませんでした。

それでも、吉永正人さんのレースの時は、実母も含めた家族全員でテレビの前に陣取り、興奮して声援を送ったという楽しい思い出も残っています。

特に、1982年に正人さんが天皇賞を制覇した際には、一番下の弟(実子)がオムツに大便をしたにもかかわらず、「ウンが落ちるから」と取り替えずに皆で叫んでいた、という豪快なエピソードは、当時の家族の熱気と絆を感じさせますよね。

ちなみに、みち子さんの実子である末の息子さんは、成人して家を出ていますが、彼女が60歳くらいの時、家賃や光熱費を浮かすために実家に戻りたいと申し出たことがありました。

しかし、みち子さんはこれを「断固、拒否」したそうです。

その理由は、息子の精神的な自立を妨げたくなかったこと、そして何より、彼女自身が築き上げてきた「一人用の老後計画」を崩壊させたくなかったからだといいます。

自分の快適なひとり暮らしを手放したくないという、潔い姿勢には、僕も深く共感してしまいます。

吉永みち子|父親・母親

■複雑な父母との関係

吉永みち子さんの人生を語る上で、お母様との関係は非常に深く複雑なテーマです。

みち子さんが幼い頃から、お母様は気難しく気性が荒く、彼女はいつも顔色を窺って過ごしていたといいます。

お母様はよく「優しい子は死んで、優しくない子は生きている」と言い、みち子さんは自分が「優しくない子」だと感じて、母の機嫌を損ねないことばかりを考えていました。

家の中で熟睡したことも気を抜いたこともない、という告白は、当時の緊迫した生活を物語っています。

実は、お母様の日記を通じて、みち子さんには異父姉がいたことが後に判明します。

お姉様は昭和11年に未婚で生まれ、7歳で病死していましたが、お母様はこの亡き姉を「永遠の理想」とし、みち子さんが姉に敵わないと感じる原因となっていました。

お母様は、22歳年上のお父様と再婚することで人生をやり直し、世間を見返したかったのかもしれない、とみち子さんは推察しています。

みち子さんが27歳で吉永正人さんと結婚する際、お母様が経済的に困らないようにと、父の遺産も自分の預金通帳もすべて母に渡した、という行動からも、母への執着や気遣いが見て取れます。

お母様が42歳で旅先であっけなく亡くなった時、みち子さんは大きな喪失感を抱きながらも、同時に「これで葛藤や確執から解放される」という清々しい青空も見えた、と振り返っています。

親子関係はお互いが鏡であり、もっと感情でぶつかればよかった、と後悔の念も抱いていたようです。

お母様との関係が「死んで終わりじゃない」と語るみち子さんの言葉は、彼女の作家としての深さや、人間に対する情の厚さの源泉になっているのかもしれません。

こういう話を聞くと、僕たちも自分の家族との関係を見つめ直すきっかけをもらえますよね。