皆さん、こんにちは!
今日のブログは、僕がずっと熱い視線を送ってきた、あの梶芽衣子さんについて深掘りしていこうと思います。
彼女のクールな魅力に、きっと誰もが心を掴まれるはず。
Google検索で「梶芽衣子」と入力したあなた、正解です!
一緒に彼女の知られざる過去から現在まで、じっくり見ていきましょう!
■目次
梶芽衣子wiki|若い頃・昔は?
■梶芽衣子の若き日:ブレイク前の知られざる素顔
梶芽衣子さん、その名前を聞くと、多くの人が鋭い眼光のクールビューティーを思い浮かべるんじゃないでしょうか。
実は、彼女の少女時代は、今からは想像もつかないくらいシャイで人見知りだったんですって。
初めて会う人には怖がってしまうような、そんな引っ込み思案な女の子だったと聞いて、僕はちょっと驚きました。
そんな彼女を変えるきっかけになったのが、ご両親の勧めで始めたバスケットボール。
中学校、高校とバスケ部に所属し、そこで友達を作る楽しさや、チームの一員となる喜びを知ったことで、大きく変わっていったそうです。
体育会系の経験が、後の彼女の強さの礎になったのかもしれませんね。
高校在学中に銀座でモデルにスカウトされ、17歳で芸能事務所に所属した梶さんは、高校卒業と同時に日活に入社。
本名の「太田雅子」として映画デビューを飾るのですが、最初から順風満帆だったわけではありません。
特にアフレコの作業では苦労の連続で、うまくできずにいるところを大物女優に嘲笑されたこともあったとか。
でも、彼女はそこで折れることなく、「笑わないでください。あなたたちは初めからこれができたんですか!」と啖呵を切ったというから、もう痺れちゃいますよね!
この出来事は瞬く間に撮影所に広がり、「生意気な新人」というレッテルを貼られる原因にもなりましたが、同時に彼女をアフレコ練習に打ち込ませ、技術を向上させる原動力になったというから、ただ者じゃないです。
悔しさから毎日お風呂の湯船で叫んでいたというエピソードには、僕も胸が締め付けられました。
そして1969年、監督のマキノ雅弘さんの勧めで「梶芽衣子」に改名すると、彼女の運命は大きく動き出します。
「野良猫ロック」シリーズや、彼女の代表作となる「女囚さそり」シリーズで一躍ブレイク。
特に「女囚さそり」では、台詞を喋らないヒロインというアイデアを自ら提案し、睨みつけるような鋭い眼差しだけで感情を表現しきったというから、その表現者としての覚悟が半端ないですよね。
この頃の彼女の姿は、女優の柴咲コウさんに「そっくり」と言われることも多いんです。
うん、確かにクールで凛とした雰囲気、似てる!
梶芽衣子|本名は?
■意外な本名?梶芽衣子の「太田雅子」時代
梶芽衣子さんの本名は、太田雅子(おおた まさこ)さんです。
デビュー当初は、この本名で活動されていたんですよ。
「梶芽衣子」という芸名に改名したのは1969年。
僕も最初にこの事実を知った時は、「へぇー!」って声が出ちゃいました。
梶芽衣子|実家は?
■神田の老舗寿司屋はデマ?梶芽衣子さんの実家
梶芽衣子さんは東京都千代田区神田の出身です。
以前は「実家が神田の老舗寿司屋」として知られていたのですが、実はこれ、事実ではないとご本人が明かしているんです。
真実のお父様は、なんと和食の料理人。
日活に入社した際、宣伝部が「料理人じゃ面白くない。神田出身だから寿司屋にしよう」と、彼女のプロフィールを創作したのが始まりだというから、当時の芸能界って、今とはまた違った面白さがありますよね。
お父様はかつてアメリカに招かれてテレビで料理を教えたり、帰国後は同業者の妬みに嫌気がさして食の経営コンサルタントに転身したりと、非常にユニークな経歴の持ち主だったようです。
実家のお店は二度の火事でたたんでしまったと聞いて、当時の苦労が偲ばれますね。
梶芽衣子|弟は?
■料理人の弟と母の介護:知られざる家族の絆
梶芽衣子さんには、お父様と同じく料理人の弟さんがいらっしゃいます。
この弟さんがイタリアで仕事をしていたことが、梶さんの人生に大きな影響を与えています。
心臓を患っていたお母様が晩年、弟さんのそばで暮らしたいと願い、イタリアへ渡ったのですが、その後の介護を梶さんが20年近くにわたって日本から行っていたというんです。
ドラマ「鬼平犯科帳」の撮影の合間を縫ってイタリアへ通うという、超遠距離介護だったと聞いて、彼女の家族への深い愛情と責任感に、ただただ頭が下がります。
梶芽衣子|家族
■生涯独身の理由:梶芽衣子の家族と愛の誓い
梶芽衣子さんは、現在77歳(2024年時点)ですが、生涯独身を貫いていらっしゃいます。
一見するとクールで独立した女性というイメージですが、実は若い頃に結婚を真剣に考え、家庭を持つことに憧れを抱いていた時期があったんです。
25歳(1972年)の頃、大手レコード会社のディレクターと婚約し、映画「女囚さそり」を撮り終えたら女優業を引退して、専業主婦になるつもりでいたそうです。
しかし、映画「女囚さそり」が予想外の大ヒットを記録し、次々と続編のオファーが舞い込みます。
結婚を理由に一度は断ったものの、周囲の熱心な説得を受け、結局シリーズ全4作に出演することに。
その結果、婚約は破談となってしまいます。
そして、別れ際に婚約者から突きつけられた言葉が、あまりにも辛辣で衝撃的でした。
「誰とも結婚するな。死ぬまで仕事を続けろ」。
梶さんはこの約束を「責任感と誠意」として受け入れ、50年以上経った今もなお、その誓いを守り続けているというんです。
「不器用な私には仕事と家庭の両立は考えられなかった」と後に語っていますが、子どもを産まなかったことを「人生で残念に思う」と繰り返し語っている点には、彼女の胸の内にある深い悲しみを感じずにはいられません。
本当に切ない話ですよね…。
ちなみに、ネットで「梶芽衣子の娘」と検索すると柴咲コウさんの名前が出てくることがありますが、これはお二人が若い頃の雰囲気がとても似ていることからくる噂で、血縁関係は一切ありません。
声優の梶裕貴さんが息子だという説も、名字が同じなだけで、結婚歴がない梶芽衣子さんとは無関係ですよ。
実のお母様は77歳でイタリアで亡くなられ、妹の太田とも子さんも女優や歌手として活動し、梶さんと共演したこともあります。
彼女は三人兄弟の長女で、弟さんは先述の通り料理人です。
梶芽衣子|現在の活躍ぶり
■77歳現役!梶芽衣子の現在と新たな挑戦
現在も女優、そして歌手として第一線で活躍し続けている梶芽衣子さん。
2024年3月24日に77歳の誕生日を迎えたばかりですが、信じられないほどスレンダーで美しいルックスを維持されています。
その美しさの秘訣は、並々ならぬ健康への意識とストイックな努力にあります。
例えば、毎晩20分間、6~11種類もの歯ブラシや歯間ブラシを使い分けて丁寧に歯磨きするんです。
歯周病をきっかけに食生活を改善し、昔はお肉大好き、野菜嫌いだったのが、今では食事の70%を野菜にするよう心がけているというから、本当にすごいですよね。
お父様直伝の万能ニンニク醤油を愛用しているという話も、なんだか親近感が湧きます。
演技面では、Netflixドラマ「幽☆遊☆白書」で幻海役を演じ、70代にして殺陣に挑戦したというから、その飽くなき探求心とプロ意識には脱帽です。
「きょう何食べた?」劇場版など、話題作にも多数出演し、若い世代の俳優たちとの共演を楽しんでいると語る姿は、まさに「生涯現役」を体現しています。
そして、歌手としても精力的に活動を再開。
特に70歳を過ぎてから歌うことの楽しさに目覚めたそうで、2024年の誕生日には最新アルバム「7(セッテ)」をリリースしました。
このアルバムは、77歳で亡くなったお母様がイタリアで過ごしたことにちなみ、イタリア語で「7」を意味する「セッテ」と名付け、お母様に捧げる一枚としています。
「7」という数字は1947年生まれ、17歳でデビューと、彼女の人生の節目に度々現れるラッキーナンバーでもあるそうです。
彼女の楽曲「修羅の花」や「怨み節」がクエンティン・タランティーノ監督の映画「キル・ビル」で使われたのは有名な話ですが、タランティーノ監督が「I love you!」と直接ラブコールを送ったというエピソードには、本当に驚きました!
海外からのオファーも「日本語で演じられない作品はすべて断る」と公言するなど、自身の美学を貫く姿勢は、僕たちにも多くの刺激を与えてくれます。
彼女のモットーである「媚びない・めげない・くじけない」は、本当に力強い言葉ですよね。
まとめ
梶芽衣子さん、本当に魅力的な女性です。
その人生の深みと、年齢を重ねてもなお輝き続ける姿に、僕自身も多くの勇気をもらっています。
これからも彼女の活躍から目が離せませんね!
今日の記事が、皆さんの「梶芽衣子愛」を深めるきっかけになったら嬉しいです。
最後まで読んでくれて、ありがとうございました!