全日空857便ハイジャック事件|犯人の動機・現在は?函館空港で1995年

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1995年に函館空港で発生した全日空857便ハイジャック事件について解説

事件の発生から解決に至る詳細な経緯、犯人の背景や動機、そして警察の特殊部隊SAT(当時のSAP)の初の公的作戦投入と、その後の組織化への影響などまとめています。

■目次

全日空857便ハイジャック事件|発生時の様子

■日本中を震撼させた1995年ANA機ハイジャック事件の全貌!機内の緊迫と奇跡の救出劇の裏側

ANA機ハイジャック事件、突如の恐怖

この事件、僕がまだ生まれる前の話だけど、今振り返っても本当に衝撃的だよね。

「次は自分たちか」って、当時の日本中が恐怖に震えた瞬間だったんだ。

1995年6月21日、いつもの定期便として羽田空港を出発した全日空857便、ボーイング747SR-100型機は、北海道の函館空港へと向かっていたんだよ。

ところが、山形県上空に差し掛かった時、突如として機内に恐怖が走ったんだ。

機内には乗員15名、乗客350名、合わせて365名もの人々が搭乗していたんだ。

彼らを人質にとったのは、当時53歳の元銀行員だった男性で、精神疾患の治療で休職中だったというから驚きだよね。

この犯人、搭乗する際に金属探知機をどうにかすり抜けて、小型のドライバーを機内に持ち込んでいたんだ。

そして、まさかの「新興宗教のの信者だ」「毒物を持っている」という脅迫の言葉。

実際には毒物も爆発物も持っておらず、武器はこのドライバー一本だけだったんだけど、当時の状況を考えたら、これはとてつもない脅しだったんだ。

地下鉄サリン事件が起こったのが同じ年の3月だから、まだわずか3ヶ月しか経っていなかったんだよね。

乗員も乗客も、そして日本の社会全体が、次に何が起きるかわからないという未曽有の恐怖に直面したんだ。

機体はなんとか函館空港に緊急着陸したものの、そこから12時間以上にも及ぶ、息をのむような膠着状態が続いたんだ。

この間、機内では飲料水や食料の提供も一切許されず、乗客の皆さんは本当に苦しかっただろうと思うと、胸が締め付けられるよ。

全日空857便ハイジャック事件|機内からのSOS!加藤登紀子がもたらした突破口

そんな絶望的な状況の中、機内から外部へ情報を伝えようとした、信じられないほど勇敢な行動があったんだ。

まさに映画みたいだけど、この事件には偶然にも歌手の加藤登紀子さんが、北海道公演のために実のお母様やバックバンドのメンバーと一緒に搭乗していたんだ。

そのバックバンドのリーダーでギタリストの告井延隆さんが、すごい機転を利かせたんだよね。

彼は、当時まだあまり普及していなかった携帯電話を、なんと新聞紙に隠してトイレに持ち込んだんだ。

そして、そこから警察に110番通報して、機内の緊迫した状況を外部に伝えたんだ。

告井さんの情報提供は、警察にとってまさに「待っていた」情報だったんだ。

彼からの連絡で、警察は犯人の動向や、乗客・乗員の皆さんが脅されてはいるものの、大きな暴力を振るわれてはいないこと、さらに体調の悪い人も極めて少ないことなどを知ることができたんだ。

犯人がテレビやラジオで外部の情報を得ている可能性があったから、テレビ局もコックピット部分にカメラを固定して、警察の動きが犯人にバレないように協力したんだよ。

この冷静かつ勇敢な行動が、後の強行突入作戦を立案する上で、本当に大きな力になったんだ。

告井さんには北海道警察本部長から感謝状が贈られているんだけど、本当にその勇気に頭が下がるよね。

全日空857便ハイジャック事件|緊迫の16時間!日本初の強行突入作戦とは

犯人の「麻原彰晃の釈放」という要求や、羽田への燃料補給、帰還の要求。

当初はオウム真理教との関連が疑われたけど、教団側は事件との無関係を主張し、犯人も途中から「オウムの関係者だ」という脅迫をやめていたんだ。

そして、告井さんからの「犯人は単独犯の可能性が高い」という情報もあって、警察は強行突入を決断したんだ。

事件発生から約12時間後、日付が変わった6月22日の午前0時25分に、道警函館方面本部庁舎で最高作戦会議が開かれたんだ。

この場で北海道警察本部長から「強行突入したい」という強い意思が示され、具体的な突入方法が議論されたんだよ。

そして、当時の村山富市首相の指示のもと、ついに決行されることになったんだ。

午前3時37分、まだ夜明け前の暗闇の中、極秘の特殊部隊SAP(現SAT)が動き出したんだ。

彼らは特殊梯子を使って、機体の前方にあるL1、L2、L3ドアから同時に侵入を開始したんだよ。

この時、最前線で突入したのは北海道警察の機動隊員で、彼らは銃器をできるだけ見せず、犯人を刺激しないように細心の注意を払いながら、迅速に行動したんだ。

わずか数分後の午前3時45分、犯人は額を警棒で打たれ、瞬く間に制圧・逮捕されたんだ。

「1人だと言うのがバレちまったかな」と犯人が呟いたという話は、本当に緊迫感が伝わってくるよね。

そして、乗客・乗員365名全員が無事に救出されたんだ。

この作戦中に、一人の乗客が肩をドライバーのようなもので刺され軽傷を負ったんだけど、この規模のハイジャック事件で、誰も命を落とさなかったというのは、本当に奇跡的なことだと思う。

乗客からは拍手が沸き起こったという証言もあって、当時の安堵と喜びが目に浮かぶようだね。

この事件は、日本で初めて警察が航空機内に強行突入し、犯人を制圧した歴史的な事例として、日本の航空史、警察史に深く刻まれているんだ。

全日空857便ハイジャック事件|犯人の意外な背景と身勝手な動機

事件解決後、逮捕された犯人の素性が明らかになったんだけど、これがまた驚きだったんだ。

犯人は「コバヤシ サブロウ」と名乗っていたけど、これは偽名だったんだ。

彼は精神疾患で休職中の東洋信託銀行の行員で、オウム真理教とは全く無関係だったんだよ。

そして、彼が「サリンだ」と言って脅していたビニール袋の中身はただの水。

「プラスチック爆弾だ」と主張していた物も、なんと粘土で作った偽物だったんだ。

実際に凶器と呼べるのは、乗客を傷つけたドライバー一本だけだったんだよね。

動機は?一体なぜ、こんな大事件を起こしたのか?

彼の動機は本当に身勝手で、当時の僕らには想像もつかないものだったんだ。

犯人は、週刊誌に掲載されていた「オウム真理教の信者による、教祖を奪還するためのハイジャック計画」という記事を読んで、衝動的に事件を起こしたんだって。

犯人は「オウム信者を名乗って大きな事件を起こせば、麻原彰晃と教団に厳罰が下されるだろう」と考えていたんだ。

さらには、もし麻原が釈放されたら、彼を道連れにして国民の英雄になれるんじゃないか、という歪んだ考えを持っていたらしい。

私生活では、犯人は既婚者でありながら愛人との間にも子供がいて、二つの家庭を支えるために経済的に困窮していたと言われている。

バブル崩壊の影響で副業も上手くいかず、怪文書が勤務先に届いて閑職に追いやられ、さらに自律神経失調症などで休職していたという背景があったんだよ。

「何もかも終わりだと思った」と公判で語っていて、最終的には「生命保険で家族にお金を渡したい」という動機もあったそうだ。

こんな個人的な理由から、あんなに多くの人々を巻き込む事件を起こしたなんて、本当に理解に苦しむし、怒りさえ感じるよ。

全日空857便ハイジャック事件|事件が変えた日本の「空の安全」とその後

この全日空857便ハイジャック事件は、日本の安全対策において、非常に大きな転換点になったんだ。

事件をきっかけに、航空機保安対策は大幅に強化されることになったんだよ。

空港のセキュリティチェックは厳格になり、金属探知機をすり抜けられた今回の教訓から、手荷物検査の徹底など、今の僕らが当たり前だと思っている安全対策の礎が築かれたんだ。

そして、この事件でその存在が初めて公に知られることになったのが、警察の特殊部隊「SAT(Special Assault Team)」なんだ。

事件前は警視庁の極秘部隊SAPとして存在していたんだけど、この事件を機に、1996年には正式にSATとして公表され、北海道を含む全国6つの道県警察にも新設されることになったんだ。

彼らのハイジャック対応訓練も徹底されるようになったんだから、事件が与えた影響の大きさがわかるよね。

犯人は逮捕後、懲役8年の実刑判決を受け、控訴審で懲役10年に引き上げられたんだ。

さらに、全日空からは約5,300万円もの損害賠償を請求されて、その支払いを命じられたんだよ。

まさに自業自得というべきか、人生を棒に振ってしまったんだね。

彼が勤めていた東洋信託銀行も、事件の翌日に彼を懲戒解雇し、大手紙に謝罪広告を掲載、株主総会の冒頭でも謝罪したというから、社会的な影響の大きさがわかるよね。

この事件は、当時メディアでも大々的に報道されたんだ。

NHKは最新鋭のロボットカメラを使って、着陸したハイジャック機の様子を生中継したんだけど、これはハイジャック機が空港に着陸する瞬間をテレビで生中継した世界初の映像だったんだって。

僕が生まれる前の出来事とはいえ、もしリアルタイムで見ていたら、テレビの前でどれほど固唾を飲んでいただろう、と想像すると鳥肌が立つよ。

「冷静な判断」「的確な行動」「組織の連携」。

この事件から僕らが学ぶべき教訓は、本当にこれに尽きると思うんだ。

極限状態の中で誰も命を落とすことなく事件が解決できたのは、現場で奮闘した多くの人々の努力と、国民全体の協力の精神があったからこそなんだよね。

今、僕たちが安心して飛行機に乗れるのは、こうした過去の出来事を教訓として、常に安全対策が進化しているおかげなんだって、改めて感謝したくなる事件だね。